憂い顔の騎士、ドン・キホーテ・デ・ラマンチャ。

全ての小説の中でもっとも魅力的な人物のひとりであり、もっとも偉大な人物のひとりである。

それがここ最近のTVのニュースなどを観ていると、「小泉総理はドン・キホーテのように周りが見えていない」、「彼は自分勝手でドン・キホーテのようだ」などとドン・キホーテを否定的なたとえに使っていることをが多い。

全く納得できないのである。

なるほど彼は狂っているかもしれない。しかし当たり前だが狂うことと悪いことはイコールではないし、むしろ善と近親関係にあると僕などは思うのだ。大体10人中9人が狂っていれば、正しい1人がおかしいといわれるのであり、定義は曖昧である。

一般論はこのくらいにして、事実ドン・キホーテは否定的なたとえに使われるような人物ではない。それは世界中の人達が知っていることである。イギリスの雑誌がノーベル賞作家を含む世界中の小説家に今まで出た小説の中でもっとも優れている小説は、とのアンケートを実施したところ、1位はドン・キホーテだった。そして専門家以外で一般の人達にドン・キホーテがどれくらい愛されているかは言わずもがなである。そのような発言をする人はドン・キホーテを読んだことがないか、あきれた鈍感人間なのだ。

ドン・キホーテの中でこのような話がある。
ドン・キホーテ一行がその道中で、鎖に繋がれた罪人達が漕刑囚となるべく役人に連れられて、歩いているところに出くわす。
ドン・キホーテはそれを見ると、サンチョが引き止めるのも聞かず、護送隊長に彼らを放免しろと、こう言うのである。
「この哀れな者どもは、別におん身たちに危害を加えたわけではなかろう。人が犯した罪というものは、めいめいがあの世で償えばよいのじゃ。悪人をこらしめ、善人を誉め称えることをゆるがせになさらない神が天にましますからには、まっとうな人間が、なんの恨みもなければ関係もないほかの人間に刑の執行をするというのは、あまりほめた話ではない。」
これを聞いた護送隊長は当然といえば当然だが拒否をする。
するとドン・キホーテは、「何をぬかすか!この悪党め!貴様こそ猫じゃ、鼠じゃ!」と言い放ち襲いかかるのである。
いきなり悪党にされた護送隊長が驚いている間もないくらいの早業でドン・キホーテは彼らを打ち倒し、罪人達を放免してしまう。

そうドン・キホーテは正しいのだ。
人が集まって過ごすには、社会で生きるには、ある程度ルールは必要である。そしてそのルールを破った者を裁くことも必要だろう。しかしここで肝心なのは人が人を裁くということである。人が人を裁くことはできないということを考え方の基本に持つことである。それを踏まえた上で人は人を裁かねばならない。
罪人を解き放ち、その被害者はどうなるのだ、などと問うても仕方ない。これは小説なのだ。クンデラ風に言えば、そんな風に真面目に捉えるものは、一生小説を分かることはないだろう。
ドン・キホーテを読んで、腹をかかえて笑いながら、僕たちは寛容さを学び、一番大切なことを感じるのである。

守中高明の詩にこんな一節がある。

正しくあること−それがわたくしのはげしい欲望でした。

正しくあることがみずからの狂おしい正しさのために狂ってしまい
狂った正しさは狂ったままで
ひとつのわたくしの茎となりました
ありえぬ正しさのために狂ってしまったわたくしのかぼそい記憶の茎は
それでも以後失われることのない真実の証となりました

(シスター・アンティゴネ−の暦のない墓 より)

アンティゴネーの詩でドン・キホーテを思い出すという無粋なことをするのは僕くらいかもしれないけれど、ふと頭をよぎった詩だ。

頭の中が騎士道物語でいっぱいになり旅にでたドン・キホーテは、風車を巨人と間違え突撃し打ちのめされても、羊の大群を敵の軍勢と間違え、そのまっただ中に突っ込んで身体中の骨を折っても、床屋の金だらいを伝説の兜と間違え頭にかぶっても、周りのやつらに笑われ、利用され散々な目にあっても、"ありえぬ正しさのために””狂った正しさは狂ったままで”、突き進むのである。

しかし彼はひとりではない。
その旅には必ずサンチョ・パンサとロシナンテ、そして世界中の小説好きがついているのだ。

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コンスタンディノス・カヴァフィス。僕の好きな詩人。

19世紀末から20世紀初頭を生きたギリシアの詩人。
芸術家にはよくあることだけれど生前は詩人として公に出版された詩集はなく、自家製本を友人たちに配布したくらいで、大きな名声を得ることはなかった。しかし裕福な商人を父に持ち、自身も役人として働いていたので、貧乏のどん底を歩き、詩に全てをかけるといったタイプではない。むしろ豊かな教養を持った知識人である。
彼が生まれたのはエジプトのアレクサンドリア。そしてその生涯の大部分をそこで過ごしている。今世紀初頭の、この様々な文化が重なり合う街で、エイリアンとして、ゲイとしての生活は彼の詩にも何かしらの影響を与えているだろう。

まあ今となっては大詩人としての評価を得ているので、僕がぐだぐだ紹介する必要も(資格も)ないのでやめよう。。。(ここには批評担当とあるけれど、僕に出来ることとと言えば感想文であるからして。)

彼の詩は大きく二つの分けられる。神話や歴史上の人物を題材にとった詩とホモセクシャルで官能的な生活を詠った詩。
どちらもとても素晴らしく、僕は中井久夫訳のカヴァフィス詩集を、もう10年は繰り返し読んでいる。
ギリシアというと青い海と空というイメージがあるが、彼の詩にはそういったイメージはどちらかというと少なく、ギリシア悲劇や風刺劇といった芝居的な要素が強いという指摘があるが、僕もそう思う。
そういえばアンゲロプロスの映画も曇り空ばっかりだったな。

彼の詩はその全体を読むことで、ホントの魅力を開くものであると言われており、実際その通りだけれど、ここであえて何行か引用してみよう。

カフェに坐りつづけた、十時半から。
あれがいつなんどきドアを開けてはいってくるか。
真夜中はとうに過ぎたが、なお待ちに待つ。
一時半も過ぎてカフェに人影もまばら。
機械的に読み返す新聞にももううんざり。
もともとさびしい銀貨三枚が
残りはついにたった一枚。長く待つからと
コーヒーを飲みコニャックをすすって二枚が失せた。
シガレットも吸い尽くした。
長い長い待ちびと。心がずたずたに破れてゆくなあ。

 (二十三、四歳の青年ふたり より)

豊かな感受性と何度となく推敲を重ねたという綿密さを併せ持つカヴァフィスのほんの一面でも感じとれるのではないだろうか。
オーデンとか好きな人には気に入ってもらえるかも知れない。

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HAPPY BIRTHDAY MOZART

2006.1.27[Fri]

250年前の今日、ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトは生まれた。

ただそこにあるような音楽。光や風や雲のように、過不足のないその音楽は、恩恵とすら言いたくなってしまう。
僕たちはそこに色々な思いを託すけれど、勝手な想いは決して届きはしないだろう。しかしなぜか聴いていると気持ちは満ちていく。
いくら声をかけても無視して、小枝かなにかを投げるとチラっとこっちを見てスタスタ歩いていってしまう猫にかまけているときの感じ。ムカツクけど笑顔になっているみたいな。

そんな音楽がどのように出来ているのかと譜面を見てみると、様々に考えられているが、それはとてもシンプルなものである。音楽は譜面ではないという基本を彼の音楽ほど教えてくれるものはない。

シンフォニー40番緩徐楽章の優しく叱られているような付点のパッセージ。アヴェ・ヴェルム・コルプスの易しいが誰にも書けない和声。天国の音楽という人も多いけれど、それは逆で彼の音楽が天国なのだろう。ジャズの王様がエリントンではなく、エリントンがジャズのように。

今年はモーツァルトイヤーとして、ウィーンはもちろん、世界中で様々なイベントが催される。コンサートにいくのがベストだけれど、CDでもいいから今年はモーツアルトを音楽鑑賞のベースにしよう。
僕のお勧めはシンフォニーならレヴァイン、ピアノならF・グルダ、内田光子。

「一般の人は、モーツァルトの作品の表層に触れて感動する。しかしもっと修練を積んだ音楽愛好家たちも、より深く彼の作品を学ぶことでようやく理解できる。万人に向くということだ」とアーノンクールは書いていた。彼によるとモーツァルトは最も偉大な3人の天才のうちの1人だそうだ。残りの2人はバッハとレオナルド・ダヴィンチとのこと。

「山口也寸志の閉ざされた手帳」

山口 也寸志

山口 也寸志
批評・写真担当

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