「アメリカの夜」が面白かったので、なんとなく図書館で借りてみた。

ロリコンの主人公がそれ故に家庭崩壊をし何もかも失った後、地元の神町に戻り再生を試みる的な話。

神町に戻ってから主人公がいつ踏み外してしまうのか、結局ゴシップ好きのような下世話な僕はわくわくしてしたのだが、自分が恥ずかしくなるくらいラストはスパっと裏切られた。これまで少女の内面に踏み込む事は無くファインダー越しに接してきた主人公が、何もかも失った後、本当の意味でのコミュニケーションを試みるところで物語が終わる。予想を裏切られた故に、読む前に想像していなかった爽やかな読後感があった。結局ロリコンを否定も肯定もしていないところも良かった。

ただ物足りない気持ちもある。もっと気持ち悪くても良かったんじゃないかと。逆にあっけなく裏切られたせいでもあるのかな。

後は文章にリズムがあるような気がして、そういう意味でも読んでる最中は楽しい。

磯崎憲一郎のAmazonのレビューにて、この人の文章はムージルの文体模倣だ、とかいうコメントがあったので岡家の慣習に従い、図書館で借りてみた。

三人の女という連作(グリーシャ・ポルトガルの女・トンカ)と黒つぐみという短編で成る一冊。黒つぐみはページを開くたびに眠気に襲われ既に朝という怪奇現象に見舞われて、ついに読む事が出来なかった。

三人の女に関しても、一言で言うと「良く分からない」が本音で読書初心者にはなかなか敷居が高かった。

その中でもトンカという短編は、何か惹きつけるものがあって読み終わったその日にもう一回読んでみた。

彼女が主人公の旅行中に他の男に浮気して、その際に病気をもらって死んでしまう、という身も蓋も無い言い方をするとそんな話で、その間主人公は頭の中でなんとか彼女を許そうとする話。

そもそも話し自体が説明のできない何かが理由となって展開する場面も多く、輪郭がなんかはっきりしない。だから読み返したくなるのか。

世間一般では不貞を働いた女であるトンカを、なんとかして許そうとするせめぎあいは確かに面白かったけど、個人的には最初から最後まで流れている繊細な雰囲気が良くて、読み返したのかな。。

いずれにせよ、ここまで良く分からない話なのに読み返したくなるって不思議だなぁって話。

「砂の女」で面白い!と思って、続けて読んだ「箱男」でうーんと思って、「壁」で挫折した安部公房だけどリベンジしたくなって「燃え尽きた地図」(文庫本)を岡家のルールに則り買ってみた。

今回は途中で投げ出さず最後まで読みました。偉い俺。

主人公の探偵が半年前に蒸発した夫の捜索を、その奥さんの根室夫人から依頼され、根室家のある団地に行くところから始まる。ずーっと探偵物のような内容が続くんだけど、残り1割くらいでどんでん返しが起こってしまう。

どんでん返しというか、あとがきにもあるけど全てのものがテレコになる。なんていうかここら辺がなんか理系っぽいなー、と。

この結末で僕が一番感じたのは、一応東京っていう大都市に住んでいるんだけど(物語の中では都市開発の名の下にどんどん拡張されていく描写もあり)、それなのに家庭と会社の往復の経路しか必要としないサラリーマン(これは窓際の僕も一応そう認めざるを得ない)。それで面白いの?っていう問いかけなのかなと。

あと、家庭や会社に待っている人がいる、イコールそれは追われてるって事なんじゃないの?とか。自由なのかよ、とか。なんかそういう事を言いたいのかな、と。

単純にやっぱり最後の一割のどんでん返し、冒頭と同じ団地に向かう坂を登る描写から始まるくだりはドキドキしたし、根室夫人はどんどん魅力的に見えてくるようになる。砂の女でも思ったけど、阿部公房の小説に出てくる女性は凄くエロくみえる。F.TOMOKOはこれが男性から見たステレオタイプっぽくて嫌だと言っていたけど。

この本も文庫本になっていないようなので、岡家の暗黙の了解に則り中野区の図書館で借りてみた。

木村榮一って人のあとがきからも分かるように、悪夢のような短編、というか、身もふたも無い感じで言うと、「世にも奇妙な物語」のような奇妙な話がずらりと並んでいました。

中でもフリオコルタサルの表題作「遠い女」は、直前のフリオ・ラモン・リベイロという人の「分身」と少し似たドッペルゲンガー的な人が遠い異国にいる、というテーマを扱っています。

にも関わらず、「分身」が純粋に自分の分身が地球の反対側にいる的な話に対して、「遠い女」は主人公の少女が眠れなくなった時の睡眠導入の手段として自分の名前のアルファベットのアナグラムを想像し、それが自分の分身として想像/現実を言ったり来たりして確立していく、というなんとも趣向を凝らしたスリリングなお話でした。

そういう意味で表題作が一番面白かったし、やっぱり違うなー、と思いました。あと、個人的に木村榮一という人の翻訳が好きなのかも。以前読んだ「南部高速鉄道」も自分には読みやすかったし。

磯崎憲一郎の本は文庫本になっていないので、岡家の暗黙のルールに則って、中野区図書館で借りてみた。これは芥川賞受賞作らしい。

主人公は妻と11年の間言葉を交わしていない、というのがこの本の帯や芥川賞受賞の際の文句としてクローズアップされていたみたいだけど、個人的にはこの小説の中に数多く積み重なっているエピソードの一つに過ぎないと思う。

それが本当に小説の中で発生しているのか、それとも主人公の妄想なのか良く分からないエピソードが連続して発生し、勿論登場人物の心の動きもよくわからない。で、気づいたら最後は主人公の人生もほぼ終局。やっぱり読書暦の浅さからか、腹にストンと落ちるわけではなかった。終の住処を実感として感じる事もできなかった。うーん。

ただなんとなく、こんなことを考えた。

自分の外の物事に接する時(仕事をしている時、他人と会話する時、小説や映画に接する時)、物事を整理して判断しようとするけれども、自分の人生に対してそれと同じように物事を整理して判断したりするだろうか?なんだかそうは思えない。正直、この主人公のように他人に説明できない直感で人生を進めているのかも知れないな、と。

あとは単純に、この静かなパラレルワールドが楽しい、といえば楽しかったかな。

うーん。。。もう一回読んでみようかな。

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